【読書レビュー】超現代語訳 戦国時代 房野史典

  • 2019年6月5日
  • 2024年8月11日
  • 建築本
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歴史好きの悩み

僕は歴史(といっても戦国時代オンリー)が好きなのですが、周りにいる人はなかなか歴史好きがいないんですよね。。
歴史好きの仲間がおらず、さみしい思いをしたことが何度かあります。

僕の周りも歴史好きが増えてほしいと思う一方で、何が楽しいのかを説明しようにもどこから説明していいのか、しかも興味を持ってもらえるためにはどうしたらいいのかがうまくプレゼンできないんです。。笑
結果僕はまた一人で城を見に行くことになるんです。

ですが、この悩みを解決してくれそうな本に出会いました。というか、この内容を要約しなくてもこの本をそのまま渡してあげればそれで済むくらい良い本でした。

内容は関ケ原の戦いと真田三代のお話に絞って書いてあるので、入門書としては戦国時代のアツイ部分だけ取り出してある感じで初心者でもとっつきやすいと思います。今回はその中でも関ケ原の戦いについてまとめていこうと思います。

関ケ原の戦いに至るまでの経緯

関ケ原と聞けば、歴史好きにとっては最もテンションが上がる戦いです。
ですが、関ケ原の戦いは一度豊臣秀吉が天下を統一してから数年後のお話。
一度泰平の世が訪れてから数年でまた乱世に戻ってしまうという状況なんです。この「どんな経緯で戦争になったのか」を紐解いていくと色んな人間模様があって面白いのですが、歴史を知らない人にこの話を説明しようとするとその背景のところから話始めちゃって、肝心の関ケ原の戦いの前にみんな飽きちゃう。。という苦い経験が多々あります。笑
今回はブログなのでそのあたりは全く気にせずイケる幸せ。笑

家康の反抗期

関ケ原の戦いの少し前。。
豊臣秀吉にはずーと息子ができなかったです。
やっと待望の子供(秀頼)ができた時には秀吉は超おじいちゃんなんです。
だから「五大老」(大名・要するに戦って仲間になったやつ)「五奉行」(家来・秀吉のもともとの仲間)の話し合いで今後政治をしていくことになってました。
だけど秀吉が死んでから好き放題やったのが徳川家康です。だって秀吉の息子の秀頼は6歳だし、石高一番多いし、実質俺No.1だし、ってことでやりたい放題。
その徳川家康に石田三成がおかしい!と抗議して起こったのがのちの関ケ原の戦いなのです。

正しいこと言ってるのはどう見ても石田三成。
なんですが、この三成、めっっちゃ嫌われてたらしい笑。加藤清正・福島正則・黒田長政からはもう完全に嫌われていたんです。
そこで中立の立場でケンカが起こらないように調整していたのが、加賀100万石の前田利家なんですが、この人も超おじいちゃん。
割とすぐ死んじゃって、死んじゃったらこの対立は超ヒートアップして三成を暗殺しようとするところまで発展しちゃいました。そこで仲介に入った家康が三成を謹慎処分にします。

イケメンの直江状

次に家康に歯向かったのが上杉景勝です。家康が正月に挨拶に来ないことに対して催促の手紙を書いたら、その部下の直江兼続から完全にケンカ売られたような返答が来てもう家康カンカン。
すぐに会津征伐に乗り出したときの京都が留守だったところに、三成がカムバックしてきて家康たちの家族を人質に取って戦いの幕が上がります。これは諸説ありますが、三成と景勝は手を組み、出兵した家康を京都と会津二方向から挟み打ちにする戦略だったのではないかと言われています。(その時に京都の留守を頼んでいたのは鳥居元忠&悲劇の人細川ガラシャ この話は次回また書きますね。)

その時三成挙兵の一報を受けた家康は小山市で一回会議します。
そこでこの場にいた武将の大半を味方につけました。(小山評定)人望アツイぜ。
さらに家康はすぐに引き返さず150通以上の手紙を書いて味方を募りました。
その中には戦いの中裏切りをお願いする手紙もあったんです。まさに情報戦ですな。。

関ケ原の戦い

さて、戦いは進みますが、ここで関ケ原の戦いの前哨戦である「杭瀬川の戦い」は島左近の力で西軍が勝利します。
で、次の戦いがみんな大好き関ケ原の戦いです。

まずは超強いハズの島左近が早めに鉄砲に打たれて死んじゃいます。
ここで西軍が全然戦いに参加しない人が続出します。
島津義弘は前日の夜襲を却下されてムカついて動かない。
吉川広家は家康と繋がってて動かない。
長曾我部盛親が出発するように促した毛利秀元は「弁当食ってるから無理」という理由で動かない。笑
そのせいで安国寺恵瓊・長束正家も動けず。
長曾我部も実はもともと東軍につこうとしていたところ、三成が関所を封鎖してしまったから仕方なく西軍という感じでした。だから動けないならそれはそれでOKだったんですね。。そんな中、動き出した武将がいました。裏切り者の代名詞小早川秀秋です。

小早川秀秋は秀吉の奥さんの甥っこに当たりますので、立場上は超西軍なんですが、家康に恩がありました。三成にチクられて領地を没収された後に元の領地に復活させてくれたのが家康だったんです。
立場上西軍に着きましたがついに戦いの最中、東軍に寝返り三成隊に襲いかかります。それを食い止めたのが僕が大好き・大谷吉継です。
小早川隊15000に大して600の兵で拮抗したというマジイケメンです。
ですが、小早川隊に触発されて脇坂・小川・赤座・朽木隊も寝返り。
さすがの吉継も「む。。無念。。。」となりました。

結果、戦国時代最大の大戦は6時間程度のもので勝敗がついてしまいました。

最後に好きなエピソード

ここで最後に僕の好きなエピソードを一つ。
三成が斬首される前、喉が渇いたから白湯が欲しいと警護の者に頼みます。
警護の者が白湯はないが柿があるからそれで我慢しろと三成に言ったところ柿はお腹に悪いという理由で断ったそうです。
これから首を切られる人間が毒を気にする必要があるのかと笑ったところ、三成は
「大義を抱く者は、首をはねられる瞬間まで命を惜しむもの。それは、何とかして望みを叶えたいと思うからだ」と言い放ったといいます。

嫌われ者の三成でしたが、義に厚いその姿はカッコイイの一言ですね。
やっぱり歴史は気持ちがアツくなります‼

取り乱しました。笑
では今日はこのくらいで。

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